リノアは幼い頃、初めて自然の声を聞いた。それは母親と一緒に森を訪れた日のことだった。森の奥深く、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む場所で、リノアの母はリノアの手を引きながら歩いていた。「リノア、ここで少し待っていて。お母さんが戻るまで動かないでね」 母の声は優しかったが、どこか切迫した響きを帯びていた。母はリノアを太古から存在するオークの木の根元に座らせ、膝に手を置いて微笑んだ。「お母さん、どこに行くの?」 リノアが尋ねると、母は首を振って答えた。「すぐ戻るから、ここで待っていて。約束だよ」 そう言って、母はリノアに背を向け、木々の間へ消えていった。背中が遠ざかるにつれ、リノアの小さな胸に不安の波が寄せ始めた。 リノアはその言葉を守り、静かに待ち続けた。 太陽が少しずつ傾き、森に長い影が伸び始める。オークの木の根はごつごつしており、苔の柔らかな感触が彼女の手をくすぐった。 鳥のさえずりが遠くに聞こえ、心地よく感じる。しかし母が戻って来ないことで、リノアの心の中に不安の感情が芽生え始めた。「お母さん、どこ?」 リノアが小さな声でつぶやく。 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、リノアは周囲を見回した。森は静かで、ただ風が木々を揺らす音だけが響いている。母の気配はない。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がり、母が消えた方向へ駆け出そうとした。その瞬間、耳元で声が響いた。 「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 驚いたリノアは足を止め、辺りを見回した。「誰?」 姿が見えない。風の音と川のせせらぎなど、自然の音だけが聞こえる。 聞いたことのない声だ。だけど温かくて、どこか懐かしい響きがする。「もう少しだけ、ここにいて」 声が再び森に響き渡った。姿は見えないが、確かにそこにいる。リノアは目を細めて周囲を見回したが、やはり何も見つけることはできなかった。「どうして? お母さんのところに行きたい」 リノアが訴えると、声は静かに答えた。「ここにいたら安全だから。僕たちが君を守ってあげる。お母さんも心配しなくて良いよ」 その言葉にリノアは不思議な安心感を覚え、彼女は再びオークの根元に座り込んだ。 目の前には小さな川が流れ、水面が陽光を反射してキラキラと輝いている。 リノアは手を伸ばし、水にそっと触れた。ひ
「何、あれ?」 リノアは立ち上がって、目を凝らした。 何が起きているのか分からず、リノアは遠くに見える孔雀のように美しく燃える炎を見つめていた。 火の粉が空高く舞い上がる。やがて、その一部が森の木に飛び移ると、次から次へと炎が燃え広がり、見渡す限り一面の炎となった。 木々の隙間から熱風が吹き込んでくる。周辺の木々が一つ、また一つと炎に包まれ、リオナの逃げ道を狭めていく。 炎と煙の壁がそびえ立ち、それらがゆっくりと近づいてくる……。「熱いよ……」 リノアは動くことができなかった。煙で息が苦しくなり、熱が肌を焼く。恐怖が彼女の心を支配した。「お母さん……助けて……」 小さな声で呟くが、誰も助けに来てくれない。「お母さん……」 諦めそうになった瞬間、再びあの声が聞こえた。「大丈夫だよ、リノア。僕たちがいるから」 突然、強風が吹き荒れ、炎が龍のように渦を巻いて上空へ舞い上がった。 空が暗くなり、大粒の雨が大地を叩く。「あっ、雨だ!」 まるで自然がリノアを守るかのように雨が彼女を包み込んだ。 炎が消え、煙が薄れていく。濡れた髪が頬に張り付き、リノアはその場に呆然と立ち尽くした。「リノア、僕たちを感じて。僕たちもリノアと共にあるから。その気持ちを忘れないで」 声が優しく心に響いた。 リノアは心の中でその言葉を繰り返し、そして言葉を発した。「うん、わかった」「でも気をつけて。僕たちの声が届かなくなる時が来るかもしれないから」 風がリノアの髪を撫で、そっと飛び去った。 リノアは母の言いつけの通り、母が戻って来るのを待ち続けた。しかし太陽が沈み、森が闇に包まれても母が戻って来ることはなかった。「どこに行ったんだろう……」 リノアは膝を抱え、オークの木にもたれかかった。リノアの呟きは風に溶け、自然の音だけが静かに寄り添った。
リノアの人生は、あの森の火災から大きく変わった。彼女は自然と深く結びついていた幼少期の記憶を胸に日々を過ごしていた。 木の窓から差し込む陽光がリノアの小さな部屋を優しく照らし出す。 村の外れに立つこの家は、母と暮らした思い出深い場所だ。今はリノア一人で住んでいる。 壁に掛かった古びた織物や床に散らばる干し草の匂いが、過去の記憶を静かに呼び起こす。だが、その記憶はいつも途中で途切れてしまっていた。母が森で消えたあの日の情景で、いつも止まってしまうのだ。 母が森で消えたあの日の記憶は、いつも霞がかかったように曖昧だ。その記憶の断片に触れるたび、まるで目の前に現れる扉が突然閉じられるように、心の奥底で何かが引き裂かれる。 あの母の柔らかな笑顔と森の風の香り——そこから先を思い出そうとすると、心の中に冷たい静寂が広がってくる。 リノアはベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。 朝の光が村の屋根を金色に染め、遠くからは井戸端の笑い声と手押し車のきしむ音が聞こえる。風に乗って運ばれてくるパンを焼く香ばしい匂いが、リノアの記憶をさらに揺さぶった。しかし、それでも「今」と「過去」の間に横たわる深い溝を埋めることはできない。 リノアは水瓶から水を汲み取り、その冷たさを喉で感じた。喉を滑る水の感触が森の奥を流れる小川の冷たさを思い出させる。 リノアは目を閉じて、その味に一瞬だけ母の笑顔を重ねた。 今日もまた、村での一日が始まる。 リノアは麻の服を身にまとい、手早く髪を後ろで束ねた。母親がいた頃は、いつも小さな手鏡を使ってリノアの髪を整えてくれた。その微笑みと優しい手の感触は今でも忘れることができない。しかし今はもう、そのような贅沢は許されない。 リノアは部屋の隅に置かれた籠を手に取り、扉を開けて外へ出た。 森に囲まれた小さな集落は、木々の緑に包まれ、家々は自然の一部となって息づいている。苔むした屋根は雨と時の流れを物語り、壁を這う蔦が生命の逞しさを表していた。 村人たちはそれぞれの朝の仕事に取りかかっている。 鍛冶屋のカイルが炉の火を赤々と燃やし、その煙が空の青に溶け込んでいる。その光景の先には、杖を頼りに歩く年老いたクラウディアと、いつものように馬の手綱をさばくレオの姿が見える。レオの手際はすっかり板についているようだ。 皆がそれぞれの役割を果たし、
村の広場に足を踏み入れたリノアの目に、不意に小さな物が飛び込んできた。それはシオンの形見だった。広場の端に立つ古い木の根元に、ひっそりと置かれた小さな笛。素朴な木彫りの装飾が施されている。シオンの手作りの笛だ。誰かがそこに供えたのだろう。シオンは幾つも笛を作っていた。 リノアは思わず足を止め、笛を凝視した。胸が締め付けられるような痛みが波のように押し寄せる。 リノアにとってシオンは兄のような存在だった。血は繋がっていなかったが、幼い日々を共に過ごし、母が姿を消してからも、いつもそばにいてくれた唯一の人だった。その優しさと力強さが、リノアの小さな世界を支えていた。 だが、それも今は失われた。つい先日、シオンは突然の事故で命を落としたのだ。悲しみと喪失感が、まるで深い霧のようにリノアの心を覆い尽くしている。 村人たちは「森での落石に巻き込まれた」と口々に言う。 リノアもそう信じていた。最初のうちは…… リノアはそっと笛を手に取り、その滑らかな木の感触を指先で確かめた。冷たい木の表面が、どこか彼のぬくもりをまだ宿しているように思える。 シオンが亡くなったなんて、まだ実感として理解することはできない。 シオンがこの笛を彫り上げた日を鮮明に覚えている。彼は笑みを浮かべながら、ふざけた調子で言ったのだ。 「リノア、これを吹けば、どんな遠くにいても僕はすぐに駆け付けるよ」 リノアは笛を胸に抱き、そっと目を閉じた。心に広がるのは冷たく重い孤独。もうシオンはこの世にいない。笛を吹いても、彼の姿も声も戻ってくることはないのだ。 シオンを失った今、リノアは本当の意味で天涯孤独の身になったのだと実感した。 「リノア、おはよう」 柔らかな声に反応し振り返ると、そこにエレナの姿があった。 エレナはシオンの恋人、村の薬師見習いでもある。少し年上の彼女は、穏やかな瞳と落ち着いた雰囲気が印象的だが、その内面には芯の強さが宿っているのを、リノアは知っていた。「おはよう、エレナ」 リノアは笛をそっと元の場所に戻し、微笑みを返した。その微笑みがぎこちないことにエレナは気づいたようだったが、彼女は何も言わずに寄り添うように隣に立った。「今日も森へ行くの?」 「うん。もちろん」「気をつけてね。最近、森が落ち着かない感じがするから」 エレナの声には心配の色が滲ん
リノアはエレナに別れを告げると、森への道を一人歩き始めた。 村の喧騒が遠ざかり、木々の影が彼女を包む。 籠を握るリノアの手がほんの僅かに震えている。それは寒さのせいではない。母が消え、シオンを失い、一人でこの村で生活する寂しさが心に重くのしかかっているからだ。 幼かった頃に聞いた、あの自然の声が再び聞こえることを、リオナはどこかで期待していた。それが何を意味するのか、どうして私に聞くことができたのか、それがどうしても知りたかった。 リノアは村の外れに広がる森の入り口に立った。 木々の間から吹く風がリノアの頬を撫で、かすかな湿った土の匂いが鼻をくすぐる。リノアは深呼吸し、籠を肩にかけるとゆっくりと一歩を踏み出した。 足元の草が柔らかく沈み、靴底に小さな土の粒が付着する。 森の姿は、いつもと何一つ変わらないように見えた。高くそびえる木々の緑、鳥たちの影、そして淡い光が差し込む薄暗い道。しかしリノアの心には何か引っかかるものがあった。 風の音は高く、耳をかすめるように響き、木々のざわめきにはいつもより鋭さが感じられる。 リノアは母親から教わった道をたどり、薬草の生える場所へ向かった。 木々が密集するその奥には、傷を癒すカミツレや熱を下げるヨモギが静かに息づいている。まるで母の手ほどきを再び受けるような気持ちで、リノアは木々の間を縫うように進んだ。 頭上の枝葉が風に揺れ、陽光がまだら模様を描きながら地面に降り注ぐ。時折、小鳥が飛び立つ羽音が森の静寂を破った。 その瞬間、心にわずかな緊張が走った。森は時として優しく、そして無情だ。リノアは身構え、そして耳を澄ました。 森に流れる音の中に、かつて聞いた自然の声が混ざっていないかと期待したが、耳に届くのは風のささやきと小鳥たちのさえずりだけだった。 あの幼い日に聞いた優しく包み込むような声が、今は遠いものに感じられる。
薬草の群生地にたどり着くと、リノアは膝をついて籠を地面に置いた。 眼前には小さな白いカミツレの花が群生している。それらを摘み、リノアは一輪の花を指先で優しく潰した。 少し苦みのある香りが立ち上がり、懐かしい記憶を呼び起こす。母がよくこれを煎じて飲ませてくれたっけ。 リノアは目を閉じて、記憶の中に身を浸した。 母の優しい声と手の温もり。そして、森で消えていった母の背中――それだけが、くっきりと切り取られたように記憶に残っている。どうして母は戻ってこなかったのか。リノアは数えきれないほど、その問いを心の中で繰り返したが、答えは一度も見つからなかった。 ふと、母の言葉が頭に蘇った。「リノア、気をつけてね。あの森は優しいけど、時々気まぐれになるから」 気まぐれ……。 リノアはその言葉を反芻した。あの頃には理解できなかったその言葉の意味が、今になって少しずつ形を持ち始めている。 リノアは立ち上がって周囲を見回した。木々の葉が少し黄色く、地面の草がいつもより乾いている。季節の変わり目にしては早すぎる変化だ。 リノアはヨモギの葉を手に取って見つめた。その茎の硬さと乾いた感触に眉をひそめた。水分が少ない。いつもなら青々として柔らかいはずなのに……。「何か変だ……」 リノアは呟き、籠に草を詰めながら考え込んだ。シオンが亡くなったあの日から、森の様子がどこかおかしい。 シオンはよく森に入り、植物や土を丹念に調べていた。その手にはいつも分厚いノートがあり、小さな文字でびっしりと自然の変化が記録されていたのを覚えている。確かノートは今、エレナが持っているのではないか。 シオンの死は本当に事故だったのか、それとも……。 その疑問が胸の内で膨らみかけた瞬間、リノアは思考を振り払うように首を振った。「今日は、これだけにしよう。これだけ採れたら十分だ」 リノアは籠を肩にかけ、引き返すことに決めた。どこかで何かが潜んでいるような気がする。 リノアはノートに何か手がかりがあるのではないかと思い始めていた。村に戻り、エレナに会って話を聞こう。シオンの死に何か隠された真実があるなら、それが森の異変と関係しているかもしれない。
村に戻ると、太陽はすでに中天に近づき、熱を帯びた光が広場を照らしていた。 子供たちが笑い声を上げて走り回り、女性たちが洗濯物を干す姿が目に映る。だが、その日常の喧騒はリノアの耳に遠く、どこか現実離れした響きに感じられた。 彼女の胸には森で見た異変が重く残っていた。 リノアはエレナの家に向かった。小さな木造の家は屋根に薬草を干す棚が設けられ、風に揺れた葉の香りが漂っている。扉を軽く叩くと、中からエレナの声が聞こえた。「誰? 入っていいよ」 扉を開けると、部屋は薬草の濃厚な匂いで満たされていた。机の上にはシオンのノートが広げられ、乱雑に置かれた紙や乾いたインク壺が散らばっている。「リノア、早かったね。森はどうだった?」 椅子に座ってノートを眺めていたエレナが顔を上げて尋ねた。 その声にはさりげない気遣いが混じっている。リノアは籠を床に置き、エレナを見据えた。「少し変だった。草が乾いてて、木も元気がないみたい」 エレナの表情が一瞬で曇り、眉間に細かな皺が寄った。彼女はノートを手に取り、ためらいがちにページを捲った。「シオンも同じことを書いてる。自然が弱ってるって。ここ数ヶ月、森の様子がおかしいと記録してる」 リノアはノートを覗き込んだ。シオンの丁寧な字で描かれた植物のスケッチ、細かく記された数字や日付が並んでいる。「シオンの死って、本当に事故なのかな」 リノアの落ち着いた声が静かに部屋を切り裂く。 その言葉にエレナの手が止まり、ノートを持つ指先に力がこもった。「実は私も怪しんでる。でも証拠がない……。村の人たちは事故だって信じてるし、まだ深入りするのは早いんじゃないかな」 エレナはリノアをじっと見据え、低い声で言った。「どうして?」 リノアの問いが鋭く響いたのか、エレナは一瞬、リノアから目を逸らし、言葉を選ぶように息を吸った。「シオンが何かに気づいていたのなら、それが原因で……ね」 エレナの言葉はどこか曖昧だったが、リノアの胸に冷たい刃のように突き刺さった。 リノアは立ち上がって窓の外を見た。子供たちの笑い声、洗濯物を干す穏やかな動き、村の風景は平和そのものだ。しかし、その下に何か暗いものが蠢いている気がしてならない。 風が窓枠を揺らし、遠くの森から届く微かなざわめきが、不穏な囁きのように耳に忍び込む。シオンの死と自然の異
その夜、リノアは広場で村人たちと話をした。火を囲み、皆が一日を終えて集まっている。 クラウディアが杖をつきながら近づいてきた。「リノア、森はどうだった?」「少しおかしかったよ。草が乾いてて……。自然の元気がないみたい」 クラウディアは眉を寄せ、火を見つめた。「昔もそんな時があった。自然が警告を発するときだよ」 クラウディアは言いながら、空を見上げる。「警告?」 リノアは思わず聞き返した。「ああ……」 クラウディアは少し黙り込んだ。そして、ためらうようにリノアの顔をじっと見つめた後、言葉を続けた。「リノアの母がいた頃も、こんな風にね……。自然の声が耳に届いていたんだ」「母が……?」 リノアの胸にかすかな不安が広がった。母の話は村ではあまり触れられない。その話題を避けるかのように、大人たちは皆、母のことを口にしなかったのだ。「彼女は特別な存在だったんだよ、リノア。村でも珍しい役割を担っていた。語り部──それが彼女の役割だった」「語り部……どうして、そんなことを……?」 私の知らない母の一面だ。「彼女は自然の声を聞き、それを村の人々に伝えていた。それが語り部としての務めだった。だからこそ、リノアも……」 リノアは困惑と戸惑いの入り混じった目でクラウディアを見つめた。その意味を深く考える前に風が舞い上がり、二人の間に新たな静寂が訪れた。「彼女も自然の声を聞くことができたんだよ。リノアと同じようにね」「どうして、それを……」 自然の声を聞くことができるなんて、誰にも話したことはない。リノアはクラウディアの言葉に息を呑んだ。 リノアの胸が高鳴り、指先が微かに震えた。母も同じように自然と話をしていたなんて……。心の中に様々な疑問が浮かび上がっては消えていく。母には聞きたいことが沢山ある。 クラウディアはリノアをじっと見つめていたが、ふいに目をそらし、立ち上がって火のそばを離れた。 リノアは戸惑いを抱えたまま、ただ彼女の背中を見送るしかなかった。火の揺らめきが静寂をかき乱す。 火のそばに残されたリノアは村人たちの会話に耳を傾けた。小さな集団の中心でレオが苛立ちを隠さず言葉を吐き出している。「自然ばかりに頼っていても、村は良くならない。もっと外と交易すべきだ」 夕暮れの広場で焚き火の明かりがレオの顔を照らし出す。「その通りさ
手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した
「でもさ、あのシカなんで消えたの?」 トランが問いかけるように口を開いた。 その瞳には驚きとほんの少しの不安が混じっている。 リノアはヴェールライトのペンダントに視線を落としながら、答えを探るように考え込んだ。 森そのものが姿を変えた存在—— あの存在と対峙した時に私の心に芽生えた感情。それは恐怖ではなく、森が私に語りかけ、包み込むような不思議な感覚だった。「もしかしたら……森そのものが怒りや悲しみを、あのシカの形を借りて表現していたのかも。それが鎮められたから、霧と共に消えていったんじゃないかな」「えっ、あれってシカじゃないの?」 トランが不思議そうな顔でリノアを見つめる。「違うと思う……」 リノアは少し戸惑いながらもそう答えた。その表情には完全な自信があるわけではない。しかし自分の直感を信じようとする姿勢が感じられる。「私も何となくだけど、殺してはいけない気がした」 エレナの瞳には、どこか遠くを見るような思索の色が浮かんでいた。「森そのものが、私たちに何かを伝えようとしたのだと思う」 リノアの声には不思議な重みがあり、トランとエレナは無意識のうちに聞き入った。 トランは一瞬、口を開きかけたが、言葉が見つからないようで、すぐに口をつぐんだ。 室内に静寂が訪れる。「何だか、よく分かんないや」 トランがぽつりと呟いた。 リノアはトランに微笑みかけ、トランの混乱を受け止めた。「ああ、そうだ。クラウディア様から手紙を預かっていたんだった。リノアに渡してって」 トランが慌てた様子でポケットから紙を取り出した。それを受け取ったリノアは、クラウディアの文字が綴られた手紙に目を通す。 紙の表面には、独特の筆跡でこう書かれていた。リノアへ 星詠みとしての力を真に目覚めさせた時、あなたは龍の涙を完全に使いこなす資格を得るでしょう。 この龍の涙が秘める力は人類にとって必要不可欠なものです。しかし、その力を軽々しく扱ってはいけません。使い方を誤れば、その力は必ず破滅への道を開きます。 龍の涙の存在は決して知られてはならない。知られたら必ず奪いに来る者が現れます。その危険を忘れてはなりません。 グリモナ村の村長グレタ、そして付き添いの女性戦士を名乗るレイナ。この者たちが村にやって来ました。 グレタはリノアについて色々と詮索してきまし
「リノア、それってペンダントについている鉱石と同じものじゃない?」 そう言って、エレナがペンダントを床から拾い上げて手に取り、鉱石の横に並べて見比べた。「ほら、ペンダントは加工してあるけど、同じものだと思うよ」 エレナの言葉にリノアはペンダントに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。 輝きや質感は異なる。しかし根底にある力の種類が一致しているように感じる。「シオン、これをどこで手に入れたんだろう?」 リノアがぽつりと呟く。 この鉱石はこの付近で採れるものではない。「さっき、ラヴィナって言ってたけど、ラヴィナって誰?」 エレナがトランに問いかけた。「他の村に住んでる人だよ。鉱石にめちゃくちゃ詳しくてさ。シオンもその人から鉱石のことを聞いたんじゃないかな」 トランの声には好奇心と年下ならではの無邪気さが表れている。トランは見張り役として村の内外をよく知っている人物だ。「リノア、ラヴィナって誰か知ってる?」 エレナがリノアに問いかける。「ううん、聞いたことない」 村外の話を聞くことは殆どない。知っているのは外部と交流のある人くらいだ。「そっか。シオンが交流していたのなら、悪い人ではなさそうね。だけど、どうして、こんなものを手に入れようと思ったんだろ。ただ珍しいからという簡単な理由じゃないはず」「私もそう思う。鉱石とは言え、いたずらに破壊する人じゃないし」 ペンダントは加工してある。恐らく、シオン自らの手によるものだ。「シオンは全てのものに生命が宿っていると考える人だった。シオンはこの鉱石を手に入れ、そして加工する必要があった。ということじゃないかな」 エレナの言葉に、部屋の空気が少し張り詰める。「何かもっと大きな理由……」 リノアが呟くように言った。 獣の怒りを鎮めたこの鉱石が、ただの装飾品や珍品ではないことは明らかだ。「ラヴィナと会って、この鉱石について話を聞く必要がありそうね。その人なら、シオンが何を考え、この鉱石をどんな目的で入手し、加工したのか、手がかりが掴めるかもしれない」 エレナの言葉が静かに部屋に響く。 リノアはエレナの推測を心に刻みながら、ペンダントにそっと触れた。──ヴェールライトが私をどこかに導こうとしている……。 リノアは目を閉じて、心の中で輝きを放つ光を想像した。──このヴェールライトは、この
リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込
「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震
二人が扉を閉めた瞬間、背後から響いていた低い唸り声が、建物を隔てるように途切れた。室内の冷たい静寂の中で、リノアたちの荒い呼吸だけが響き渡る。 リノアは疲れた手で扉に寄りかかりながら、胸をほっとなでおろした。その一方でエレナは緊張を途切れさせることなく、鋭い目つきで外の気配を探っている。「ここからが本当の試練──まだ気を緩めてはいけない」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、そして立ち上がった。獣たちが、こちらの様子を伺っているのが分かる。少しでも隙を見せれば、たちまちやられてしまうだろう。 窓の外は霧が怪しく揺らめいている。 その中から浮かび上がる異様な姿…… シカに似た姿——角は不自然に曲がりくねり、瞳は青白い光を放っている、まとう黒い靄のような光が、その存在をこの世界のものとは思えないものにしていた。 その奇妙な生き物たちが研究所の周囲をゆっくりと彷徨っている。──悲しげな唸り声……これは自然そのものの怒りなのかもしれない。 リノアの直感がそう囁いた。 森の奥深くでオルゴニアの樹を傷つけ、鉱石を掘り起こす人間の姿が脳裏によぎる。──きっと私たちが自然を穢したからだ。決して動物たちのせいでは…… リノアは胸に手を当てた。──やはり、そうだ、龍の涙は自然の怒りに反応している! その感触にリノアの胸が痛む。 生き物たちの動きが次第に警戒を増し、悲しくも怒りを湛えた唸り声が低く響き渡る中、エレナは鋭い動きを見せた。「追い払わなきゃ」 そう呟いたエレナは即座に弓に手を掛けた。その瞬間、リノアの顔が強張った。「エレナ!」「分かってる。眠らせるだけよ」 エレナは矢筒から特殊な加工を施した矢を選び、慎重にそれを弓に掛けた。矢先には薬草から抽出された微量の神経毒が塗布されている。 エレナの瞳が鋭く光り、狙いを定めた。その姿は、一瞬の隙も許さない緊張感を纏っている。リノアは心の奥底から湧き上がる恐怖に飲み込まれそうになった。──矢を放つことで自然の怒りを更に煽ることになるのではないか。 しかしリノアには、どうすることもできない。自然への敬意と悔恨を胸にエレナの背中を見守るほかないのだ。 龍の涙はリノアの胸の内で赤く脈動し続けている。リノアはただ、その場に立ち尽くした。 と、その時、部屋の奥で小さな物音がした。 反射的にエレ
エレナが森の奥をじっと見つめた後、リノアに目配せを送った。「もう戻って来る気配はないみたいね」 エレナが安堵した表情を浮かべて言った。「帰るよ、リノア。あまり長く、この場所に居続けない方が良い」 そう言うと、エレナは握りしめていた弓をそっと背中に回し、矢筒の中に矢を丁寧に収めた。その動作は穏やかでありながらも、戦士としての洗練された所作を感じさせる。 エレナは肩を軽く回した後、足を一歩、前に踏み出した。 リノアは水晶をポケットに滑り込ませ、最後にもう一度オルゴニアの樹を見ようと思い、振り返った。 背後にそびえるオルゴニアの樹── その威厳ある姿は月光を浴びて一層、厳かな雰囲気を纏っている。──この樹が見てきたこの森の物語は一体、どういったものなのだろう。私の知らないことを沢山、知っていそうだ。 リノアは、その雄姿を記憶に深く刻み込ませるように眺め、エレナの後を追った。 木々の間を抜けた月の光が道を照らしている。 その道の上を流れる一筋の風を感じていた時、ふとリノアの耳に音が飛び込んできた。 それは森そのものが警告を促すかのような不快な音だった。──この鳴き声は動物のものだ。 リノアは直感的にそう感じ、息を潜めたまま耳を澄ませた。 その不協和音にも似た動物たちの咆哮は森の奥深くから聴こえてくる。その不気味な声にリノア胸がざわつく。──動物たちが怒っている……。オルゴニアの樹に触れたからだろうか。 リノアがその感覚に思考を巡らせる間もなく、風が不意に止まり、森を包んでいた音が消え去った。突然訪れた異様な静寂にリノアは警戒心を覚えた。 空気がひどく重く感じられる。──獣の息遣いを思わせる音、そして、この地面を震わせる足音…… 森全体から発せられるこの緊張感は、まるで一つの意思がリノアたちを押し潰そうとしているかのようだった。 リノアは咄嗟にエレナの腕を掴んで言葉を投げかけた。「急いで、早く……!」 リノアの言葉に反応したエレナは、リノアと共に小走りで森を駆け抜けた、その目は森の奥深くを探るように鋭く光っている。 二人の足が濡れた土を踏み、静寂を断ち切る中、唸り声と獣たちの足音が背後から迫って来る。 走っている最中、リノアは胸の龍の涙に意識を飛ばした。──龍の涙が反応している! 静けさとは程遠い、激しい怒りに共鳴す
「エレナ、今の人たちって誰だろう?」 リノアが囁くように問いかけた。この辺りの集落の人たちとは服装も雰囲気も明らかに異なっている。「街の人たちじゃないかな」 エレナが短く答えながら、人影が消えた方向に目を凝らした。 旅人や行商人以外、街の住民が山を登ってくることは滅多にない。通常は村人たちが街まで降りて売買するものであり、街の者がわざわざ山を登ってくることは考えにくい。 それに今は夜でもある。この時間帯に山にいるのは不自然なことだ。しかも、この辺り一帯は、村の領域として知られている。「生命の欠片って言ってたよね」 リノアが呟いた。 頭の中でその言葉が繰り返される。──確かに、そう言っていた。龍の涙とは別の物だろうか。 一体、人影たちは何を探していたのだろうかと思い、リノアは人影が彫った穴に向かった。 青白く光る物体──地面に叩きつけられ、放物線を描きながら地面を跳ねて行った映像がリノアの脳裏に鮮やかに蘇る。 恐らく、この辺りだろう。 リノアは、映像をなぞるように物体の後を追った。 霧が薄くたなびく中、リノアは慎重に物体を探し始めた。湿った草の感触が指先に伝わり、冷たく柔らかな土がかすかに抵抗を返してきた。 ふと、リノアの指が硬く滑らかな物体に触れた。それは他のどれとも異なる質感で、妙な温かみを感じさせるものだった。 青白い光がリノアの顔をほのかに照らす。 物体は小さく、透明感のある結晶──その輝きは不規則で、まるで内部に閉じ込められた生命が脈動しているかのようだった。 リノアは驚きと共に息を呑んだ。ペンダントに使われている鉱石とは異なる物体……。 一目見て、ただの石ではないことが分かった。このような躍動する石は村には存在しない。「エレナ、これ、何か知ってる?」「鉱石の中には特別な力を持つ物があると、シオンから聞いたことがあるけど、それかな。私にも触らせて」 そう言って、エレナが水晶に触れてみるが、水晶は何の反応も示さなかった。「リノア、ペンダントに近づけてみて。何か反応するかも」 エレナが言った。 リノアがペンダントに水晶を近づけた瞬間、ペンダントに刻まれた星の紋章がふわりと輝きを増した。その光は、まるでペンダントが水晶に反応しているかのように神秘的なものだった。──始めてペンダントに触れた時、神殿の光景が目の前に
エレナが矢筒を背負い直して茂みを出て行き、リノアもその背中を追うように続いた。 夜の冷たい空気が肌を切るように触れる。辺りは恐ろしいほど静まり返り、霧がゆっくりと地面を這うように広がっている。 足を踏み出すたびに草が湿った音を立て、リノアのペンダントがわずかに輝きを放ちながら揺れた。 その光は薄暗闇の中で頼りない希望のように感じられるものだった。 遠ざかった人影はすでに姿を消している。リノアは人影の後を追うように神殿の方向へ視線を向けた。 月光に照らされ、浮かび上がった神殿のシルエット。それは荘厳でありながら不気味な雰囲気を漂わせ、まるで二人を誘うかのように佇んでいる。 シオンの真実が、そこに待っている。しかし、そこに足を踏み入れることがどれほど危険な行為なのか、リノアには肌で感じ取ることができた。──神殿から離れて、わざわざここまで来たのは何故だろう。 リノアは、ふと思った。──何かを目印にでも? リノアは周囲を見回した。 木々の影が月光によって長く地面に伸びている。その樹木は鬱蒼と茂り、枝葉が重なり合って微かな風の流れを遮っている。 樹木以外は、これといって目立ったものはない。あると言えば、ひと際目立つ大木くらいだ。 幹が大きく真っ二つに割れている。しかし逞しくも根が地面を掴むように広がっており、古木の割には生き生きとしている。 根元にある色褪せた草花と比べ、その存在は、どこか異質なものを思わせた。 リノアは少し離れた位置から大木を見上げた。「オルゴニアの樹……」 伝承に語られるその樹の名が自然とリノアの口をついて出た。その声には、どこか懐かしさと畏怖が滲んでいる。 リノアはこの樹を何度か目にしたことがあった。 戦乱の記憶と共に蘇るのは、幾つもの古木が炎に呑まれ、破壊されていった光景だった。だが、オルゴニアの樹は奇跡的に生き延び、その根を地にしっかりと下ろしながら時を越えて存在し続けている。 その姿は、今もなお威厳と不気味さを携え、森の中で孤高の存在感を放つものだった。 近年では薄れつつ感覚ではあるものの、村人たちはかつて、森や自然そのものに神秘の力を見出してきた。 岩や湧き水、花、キノコ、菌糸、さらには日常の些細なものに至るまで、彼らは敬意を持って崇拝していた。オルゴニアの樹は、その象徴とも言える存在だった。「